『フラメンコ フラメンコ』 情熱と官能の101分に酔いしれる

待ち焦がれていた映画を見に、「Bunkamuraル・シネマ」に行ってきた。

1995年に『フラメンコ』を撮ったカルロス・サウラ監督と、ヴィットリオ・ストラーロ撮影監督が、再びタッグを組み、21世紀に進化したフラメンコの真髄に迫った『フラメンコ フラメンコ』だ。

初日、150前後の座席は各階満員。女性のみならず男性客もかなり多い。スペインに次ぐフラメンコ人口を有するという日本の、フラメンコブームの熱気を感じる。

21幕の宴


予告に続いて、何枚もの巨大な絵が飾られた大きな倉庫のような建物の中を、カメラが進んでいく。

マリア・アンヘレスが歌う「緑よ、お前を愛している」から、21幕の宴が始まる。
2幕目、いきなり肌が透けるような赤いドレスをまとったサラ・バラスの肢体が圧倒的な存在感を画面いっぱいに見せ付ける。

シューズのかかとを踏み鳴らす「サバテアード」は、ダンサーの体の中にたぎる情熱を刻む。

もう、それだけで「フラメンコ」という情熱と官能のとりこになる。

ひとつひとつの幕が、ひとつの世界を作りながら、21幕全体で「生命の旅」と「光」という要素によって結ばれている。

陰影のある構成と圧倒的なカメラワーク


21もある幕を、どのように最後まで見せるのかと思っていたのだが、さすがフラメンコを知り尽くした両監督の手腕は卓越していた。

4幕では、なかなか触れることのない「フラメンコピアノ」という、男性二人の洗練された演奏が見られる。

8幕目には、フラメンコの名門に生まれ、マリア・バラが宗教歌を披露する。聖母マリアをたてまつる歌を無伴奏で歌い上げる80歳あまりの女性の存在感は、フラメンコの「血脈」そのものだ。

16幕の「エル・ティエンポ」は、6人の美女による群舞だ。2幕目の「いとしのサリータ」が奏でる情熱と官能とは違った、何か流れるような美しさの中に、気品が感じられる舞だ。

センターで踊るダンサーの、射るような、見るものをとりこにする視線を追ううちに、あっという間に美しすぎる幕は閉じる。

18幕の「子守唄」は、いきなり土砂降りの雨。 水煙にかすむ絵の前で歌うミゲル・ポペダにまとわりつくように濡れ髪を振り乱しながら踊るエバ・ジェル・パブエナの上半身をカメラが追う。

そう、この映画は、カメラワークが素晴らしすぎる。観客と演じ手の間には、どうしても肉薄できない「距離」があるものだが、この映画ではカメラが踊り手の間を縫っていく。演じての内面まで透視してしまうような、いいようのない臨場感がある。

巨匠 パコ・デ・ルシアを堪能する


最後から2幕目、いつ登場するのかと待ち焦がれていたパコ・デ・ルシアが登場した。

2005年に東京芸術劇場で聴いた、パゴ・デ・ルシアのコンサートは、おそらく私の音楽経験の中でナンバーワンといっていいほどの舞台だった。

それ以来、彼の演奏シーンが見られることをずっとずっと願っていた。

歌い手やコーラスの面々が輪になっている。その中央に、ギターを携えて座った彼は、6年前よりすこしふっくらとして、柔和になった感じがした。

あの日の、至上の音楽ともいえるような大ホールでの緊迫したステージとは違って、回りの演じ手と同じ「フラメンコの血」を共有するかのような時間が流れていく。

生きていくことの哀しみと喜び


ラストは、フェスタを再現した「ブレリア・デ・へレス」がにぎやかに始まる。老若男女が、輪になって、つかの間の歓喜を楽しむ。カメラは次第にその輪を離れ、私たちは現実に引き戻される。

「哀愁」と「歓喜」 人生の陰影をこれほどまでに情熱的に表現した舞踏はないのではないか。そう思わせるほど、「フラメンコ フラメンコ」は、見るものを酔わせる。

間違いなく、私はもう一度映画館に足を運ぶだろう。ぜひ、スクリーンで見たい作品だ。
(初音/初音と綾乃)

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