【最新12星座占い】<3/7~3/20>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモい

[目次]

  • 【SUGARさんの12星座占い】<3/7~3/20>の12星座全体の運勢は?
  • 【SUGARさんの12星座占い】12星座別の運勢

  • 《牡羊座(おひつじ座)》
  • 《牡牛座(おうし座)》
  • 《双子座(ふたご座)》
  • 《蟹座(かに座)》
  • 《獅子座(しし座)》
  • 《乙女座(おとめ座)》
  • 《天秤座(てんびん座)》
  • 《蠍座(さそり座)》
  • 《射手座(いて座)》
  • 《山羊座(やぎ座)》
  • 《水瓶座(みずがめ座)》
  • 《魚座(うお座)》



  • 【SUGARさんの12星座占い】<3/7~3/20>の12星座全体の運勢は?
    「適切に茫然とする」 
    3月5日に「啓蟄」を迎え、青虫が蝶へと変わって春の立役者たちが次第に顔をそろえ始める中、3月13日にはうお座24度で満月を形成していきます。

    今回のテーマは「開かれ」。すなわち、本能的に茫然として放心することで、特定の対象や他者につねに関わりを持ち続けることをやめ、より純粋で本質的な震撼にさらされていくこと。その意味で、「開かれ」とはまったくもって非合理な説明でしかないのですが、それはどこかこの時期特有の季語である「山笑ふ」という言葉にも通じていくように思います。

    春の山の生き生きとして明るい様子を擬人化した表現なのですが、花や若葉の色合いなどがなんとなく淡くやさしく霞んだように見えるだけでなく、それが「ほほえみ」として決定的に到来するのが一体いつなのかは誰にも予測できません。

    自分に都合のいいレッテルにしろ、本音を隠すのに便利なスタンプにしろ、いつも頭の中になにかしら張り付けてしまいがちな人ほど、自然で生気にみちたエロティックな生に入っていくのは難しいものですが、今回のうお座新月はこれまで惰性で続けてきてしまった習慣や言動にいかに休止符をはさんでいけるかが共通した課題となっていくでしょう。

    そうして見えることしか見ないのではなく、見えないことも感じていくなかで、やっと人は自己の閉ざされから世界へと開かれていくことができるのです。

    《牡羊座(おひつじ座)》(3/21~4/19)
    今期のおひつじ座のキーワードは、「妖しい間合い」
    古井由吉の長編小説『槿』は、四十歳を超えたばかりのもう若くはないが老いてもいない男・杉尾の周囲に、どういう偶然の事情によるものか、三人の女が集まっては交錯していくお話なのですが、そこでは誘いかつ拒む身体としての女性を前に、主人公自身もどうしたらいいのか分からなくなってしまうという場面が手をかえ品をかえ繰り返し登場してきます。

    「「一度きり、知らない人に、自分の部屋で、抱かれなくてはいけない、避けられないと思ったんです」
    言葉とはうらはらに、男の沈黙に押されて、やめて、と哀願する光が目に差した。杉尾は顔をわずかに横へ振った。」

    これは献血所の寝台で隣り合わせたところから縁が生じた31歳の女のアパートでの場面。次は、高校時代の級友の妹で、大学の頃、門のところまで送っていった別れ際に抱きすくめようとして拒まれたことが一度ある、39歳の女とホテルの部屋で向かい合った場面。

    「「来ないでください、そこに坐っていて」話の中から、いきなり杉尾に呼びかけたものだった。「来てもかまいませんけど、来るなら部屋を出て行くまでひと言も、口をきかないでください」」

    いずれにおいても、女は禁じつつ誘い、誘いながらも男の指先と視線を冷たくはじき返し、その両義的な姿勢のただ中で、甘い花粉を散らす花となって静止しているようでもあります。当然、男もまた困惑のなかで動きをとめ、「きわどい釣合い」によって宙を吊られ、「張りつめた静かさ」のなかで苦痛なのか快楽なのか分からないものが熾(おこ)り立つ、精神的な修羅場のような地点に立ちすくんだまま、うつらうつらと半睡状態に陥っていく。

    ここには、恋愛だの情事だのといった手垢のついた言葉では形容することのできないような微妙で複雑な、名状しがたい倒錯に侵された関係があり、そこで主人公はいつの間にかそれまでの安定した秩序からはみ出していることに気が付くのです。

    今期のおひつじ座もまた、そうした男と女の間の、また運命と運命のあいだの、絶えず伸び縮みするような妖しい間合いのただ中で、立ち尽くしていくことになるかも知れません。

    参考:古井由吉『槿』(講談社学芸文庫)
    《牡牛座(おうし座)》(4/20~5/20)
    今期のおうし座のキーワードは、「精神の明晰さ」
    「純情」とか「純潔」といった言葉くらい、現代社会において胡散臭いにおいをぷんぷん放っている言葉はないように思いますが、かといって不純や不潔が好きなのかと問えば、大方の人は首を横に振るでしょう。

    例えば、戦後まもない娼婦の街を舞台にした吉行淳之介の短編小説『驟雨』には、大学を出て3年目の独身サラリーマン・山村英夫という主人公が出てくるのですが、彼はつねに精神の平衡を保っていたいという理由から女性関係はもっぱら娼婦に通うことに限定しているという、年の割には老成した考え方の持ち主です。

    ところが、「この町から隔絶したなにか、たとえば幼稚園の先生の類を連想させた」、「若い美しい保母」のような道子という娼婦と出会い、彼女のいるお店に通い続けるうちに、ミイラ取りがミイラになって嫉妬に苦しみ始めます。

    ただ、その一方で「(娼家の風呂に入って)すっかり脂気を洗い落としてしまった彼の髪は、外気に触れているうちに乾いてきて、パサパサと前に垂れさがり、意外に少年じみた顔つきになった」とあるように、自分のなかに老成した大人と純粋な少年が同居していることに気付かされていくのです。

    つまり、普通は愛情と呼ぶものの中に少なからず混入された計算やエゴイズムに気付かない鈍感さや偽善や自己欺瞞を許容できない純粋さと明晰さこそが、そうして彼を娼婦の街へ赴かせる原因となっていたことが明らかになっていく訳です。

    今期のおうし座もまた、そんな風に男女や物事の在り様をまざまざと透視する吉行淳之介という作家の明晰さにならって、自身の言動の背後に潜むものを見つめていくことがテーマとなっていきそうです。

    参考:吉行淳之介『原色の街・驟雨』(新潮文庫)
    《双子座(ふたご座)》(5/21~6/21)
    今期のふたご座のキーワードは、「遊民」
    管理社会が行く処まで行き、社会がディストピア化することももはやSFではなくなった今の時代、人びとがおのれに問いかけるべきは「いかに頑張るか」ではなく「どこへ逃げるか」になってきつつあるように思います。

    かつての時代であれば、逃げ場所といえば「河原」でした。河原は単に河と陸の境界というだけでなく、ひとつの世界ともうひとつの世界とを隔てる「さかいめ」であり、近世社会ではそこで牛馬の皮をなめし、布の染色が行われ、毎日のように踊りや音曲や芝居の歓声が響いていました。

    中世の河原には多くの人がそこに住み、役者や皮革業、死体処理、清掃、細工職人、庭づくり、遊女などが暮らし、彼らは河原者と呼ばれて、制度のすき間に生きたのです。

    江戸文化研究者の田中優子の『江戸百夢』によれば、「河原は管理が及ばない世界」であり、「離農蝶逃散して来ても、異国者であっても、河原に来れば生きることができ」ましたし、「どこから来たかわからないし、いつどこへ消えゆくかわからない。把握できない」在り方をもって「遊民」とも呼ばれ、その中には「離農民から僧侶、火消し、中小商店の旦那衆まで」含まれ、やがて「遊民の中から、物語を語るものたちが出現した」のであり、彼らは「さかいめ」の人間であるからこそ、河の向こうの世界を見ることができたのでした。

    「体と魂の力を抜いて、エロティックなことや、水のことや火のことや、生のことや死のことや、向こう側のことを考える場所が必要となる。河と河原がマザーなら、それは壊してならない「場所」だった。しかしもう、そんな場所は日本のどこにもない。」

    今期のふたご座は、そんな失われた逃げ場所を、制度のすき間や過去と現在の差異のなかに改めて見出していくことがテーマとなっていくでしょう。

    参考:田中優子『江戸百夢』(朝日新聞社)
    《蟹座(かに座)》(6/22~7/22)
    今期のかに座のキーワードは、「遊離のスイッチ」
    恋にしろ、哀悼にせよ、思いがつのるあまり胸元を突き破って魂がどこかへ離れて飛んでいきそうになるような人間の身もだえの話というのは、いつの時代も変わることのない真実味を感じさせるものです。

    例えば、桜狂いの歌人であった西行には、よく知られたこんな歌があります。

    「をぐらのふもとにすみ侍りけるに、しかのなきけるをききて
    をじかなくをぐらの山のすそちかみただひとりすむ我が心かな」(『山家集』)

    そしてこの一首について、哲学者の山折哲雄は次のように述べています。

    「小倉山のふもとに庵を結んでいる西行。庵であるから、むろんひとり住まいである。きこえてくるのは牡鹿の声だけ。猛々しい叫びが澄んだ大気をつき破る。それをじっと聞いている「我が心」。ひとり住まいのなかで、輪郭の定かでない心がふわふわと膨らんでいく。からだの感覚が希薄になっていく。「ひとりすむ」のすむは、その心が澄みわたること。ひとり住まいの孤独がそのことを可能にしている。」

    こうして「ひとり」の窓を通して眺めるとき、心のどこかでそれまで蓄積されてきた思いの丈がはじめて堰をきってどこかへ向かって流れ始めるのではないでしょうか。

    今期のかに座もまた、そんな「ひとり」の感覚の深まりを通じて、しぜんと魂が遊離していくスイッチが入っていくことがあるかも知れません。

    参考:山折哲雄『「歌」の精神史』(中公文庫)
    《獅子座(しし座)》(7/23~8/22)
    今期のしし座のキーワードは、「しみじみする」
    昨年後半くらいから「風の時代」ということが言われるようになって、ますます「地道に生きる」ことがどこかで嘲笑されるような風潮が増しているのではないかという危惧を感じるようになりましたが、昔はそういう生き方からはずれることを「気がふれる」などと表わしたものでした。

    「ふれる」というのは、雷のような高圧電流に感電するようなものですが、作家の車谷長吉は「因果づく」という随筆のなかでそれを「魔物は普段「寝た子」であって(中略)いったんこれを起こしてしまうと、「変」が出来(しゅったい)するのである」と言い表した上で、次のように述べていました。

    「下総九十九里浜あたりでは、「はしゃぐ」ことを「じゃばける(蛇化ける)」と言い、「地道に生きる」ことを「しみじみする」と言うのだそうである。ただ、この「しみじみする」は、「あの家(いい)の娘、しみじみしとらんな。」という否定形か、「あんた、も少ししみじみしたらどうか。」というような命令形で使われることが多いのだそうである。併し当然、この言葉づかいの底には、「しみじみする」ことを何よりの価値とする生活観がひそんでいる。「しみじみした」ところでのみ、人は私(ひそ)かな自信を持って生きることが出来るということだろう。「蛇化ける」は、人が蛇に化けるのか、蛇が人に取り憑くのか、いずれにしても異類になることに違いない。」

    こうした物言いに照らしてみると、昨今の流行のようにYouTuberになるとか、好きなことをして食べていくということ自体が「蛇化ける」ことであって、必ずどこかで「しみじみする」ことが足りないのではないか、という形で帳尻を合わせる必要が出てくるものなのではないでしょうか。

    今期のしし座もまた、車谷の「「しみじみした」ところでのみ、人は私(ひそ)かな自信を持って生きることが出来るということだろう」という一文を骨身に沁みて感じていくことができるはずです。

    参考:車谷長吉『業柱抱き』(新潮文庫)
    《乙女座(おとめ座)》(8/23~9/22)
    今期のおとめ座のキーワードは、「ごく自然な息遣い」
    往々にして特別な人というのは、自分のことを特別などと思っていないところがありますが、表現の分野ではどうしても自意識がにじみ出てしまうため、自分を何でもない場所に置くということ自体がひとつの特別な才能でもあるという逆説が成立していきます。

    例えば、歌人の俵万智などがその代表でしょうか。彼女を一躍有名にした『サラダ記念日』には、

    「愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う」

    という歌がありますが、これなども「言ってくれるじゃないの」という感情の表出に、どうしてもこの歌手よりも「自分のほうが上だ」という意識が見え隠れしてしまうものですが、俵さんの歌からは自分と歌手とがまったく同等であると感じているようにしか受け取れません。

    そもそも自分と同等であると感じていなかったら、歌人はこの歌手を取りあげていないでしょうから、取りあげておきながら、それを不自然に上に持ち上げる訳でもなく、卑しくも下に見るでもなく、目線を同じくして扱うことができる。そこのところに、やはり才能の特異さであったり、人気の秘密が見出せるように思うのです。

    「我だけを想う男のつまらなさ知りつつ君にそれを望めり」

    これも端的に言って、日常的によくある女性心理が盛られた特別な着想がある訳ではない一見平凡な歌ですが、このごく普通の息遣いというものが本当に作者自身のものなのかという疑問は消えません。

    つまり、意図的に自分を、そういう女性の立場に置いている歌なのだ、と取ることもできると思うのですが、ただ仮にそうだとしても、それはかなり身に付いた意識の仕方と言わざるを得ないでしょう。

    今期のおとめ座もまた、自分を過剰に否定してみせるのでも、キラキラに盛ってみせるのでもない、ごく自然な息遣いで向きあう他者と同等のところに置いていく習慣を心掛けていきたいところです。

    参考:俵万智『サラダ記念日』(河出文庫)
    《天秤座(てんびん座)》(9/23~10/23)
    今期のてんびん座のキーワードは、「フラジリティ」
    コロナ禍において悪夢のような経済状況が続くなか、もはや「男の甲斐性」という言葉が完全に死語となりつつある今、「成功」とか「自己実現」といった強い言葉に代わる新たな概念やそれにひもづくロールモデルが必要とされているように思われますが、編集の巨人・松岡正剛はいち早く「弱さ」ということのうちに単に強さの欠如ではすまされない、ただならぬ価値やその深みが潜んでいることを見抜いて、『フラジャイル』という一冊の本に仕立てて言及していました。

    いわく、「「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。それは、些細でこわれやすく、はかなくて脆弱で、あとずさりするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあらわすものなのだ。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである。」

    たしかに「もろさ」や「はかなさ」、「きずつきやすさ」という言葉で形容される何かには、たとえ実際に外部から何らかの破損や危害を加えられることがあっても、なかなか壊滅しきらない内的充実があり、その「不可解な名状しがたい奇妙な消息」のことを松岡は「フラジャイル」とか「フラジリティ」という微妙な概念で表わしてみせたのです。

    そうした危ういものや異例なものは、しばしば物語の格好の主題にもなってきましたし、川端康成や三島由紀夫や水上勉の主人公などはみなどこか「フラジャイル」な人たちであり、ひと昔前の作品であればつげ義春の「無能の人」などはその典型でした。

    今期のてんびん座もまた、そうした挫折や失敗をともなう弱弱しさや、その奥に潜む内的な充実ということにこそ焦点が当たっていくでしょう。

    参考:松岡正剛『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)
    《蠍座(さそり座)》(10/24~11/22)
    今期のさそり座のキーワードは、「暗闇での手探り」
    春になると頭のおかしい人が出る、ということは昔から言われてきましたが、これは身体的な側面から言えば寒くて乾いた冬のあいだ閉じていた身体が温かくなるにつれ開いてくるのに、頭部だけ思い悩んで閉じたままの状態が続いた結果、滞留したエネルギーのわだかまりが抜け道を探してさ迷い歩いている訳です。

    これは鬱状態になった人が、過去の記憶に苦しめられるばかりでなく、未来に押しつぶされ、あり余る時間のなかで何をどうしたらいいのかまったく分からなくなってしまうという状況とも似ていますが、つまり時間を潰そうとしているとき、私たちはむしろ時間に潰されているのです。

    そんな時、人はどうするか。西欧では長らくそんな時にこそ、ホロスコープを開き、星占いに熱狂しては、常に逃げ去っていくように思える未来を知ろうとしたのです。

    哲学者の山内志朗は、『小さな倫理学入門』の「<私>という苦しみ」という章において、こうした状況に対する別のアプローチとして次のようなことを語っています。

    「コングウッドは、人間は未来に向かって後ずさりしながら進んでいくというイメージを語りました。後ろにあるものに対しては、見たり知ったりすることができない以上、信じるしかないということがあります。」

    「これは倒錯した気持ちなのではなく、未来に向かう場合にはほぼ必然的にもつ感情なのです。なりたい自分に向かって未来に進むのではなく、なりたい自分を見つけるために、未来に進もうとしている自分のイメージを作りあげる必要がありますが、そのイメージを自分の内に作りあげるためにとりあえず未来に進んでみるのです。真っ暗な部屋の中で灯りのスイッチを探すために壁を触りながら進む状態、これが未来に進む人間の姿だと思います。暗闇での手探り(groping search)と言われるものです。」

    こうした暗闇での手探りは、エネルギーの抜け道が見つからない人と似て、自分が光であることを深い実感とともに気付かないかぎり、ずっと暗いままの状態が続くのではないでしょうか。

    今期のさそり座もまた、占いをするにしろ、夜道をさまよい歩くにしろ、いずれの道を歩くのであれ、「未来に進もうとしている自分のイメージを作りあげる」ことができるかどうか、ということが問われていくことでしょう。

    参考:山内志朗『小さな倫理学入門』(慶應義塾大学三田哲学会叢書)
    《射手座(いて座)》(11/23~12/21)
    今期のいて座のキーワードは、「新規の神々の創作」
    哲学者というと、ともすると“むずかしい内容の本を書く偉い学者”といったイメージを思い浮かべる人が多いのではないかと思いますが、古代においては第一級の危険人物であり、そろいもそろってろくな死に方をしていない浮浪者同然の存在でした。

    例えば、プラトンの師であり哲学者の元型的存在とも言えるソクラテスは、いつも酩酊している、醜い喜劇役者のような老人でした。例えば彼は、セミしぐれの炎天下で突然道で立ち尽くし、動かなくなる。かっと目を見開いたまま、夜が明けても同じ姿勢で立ち続け、太陽(アポロン)に祈りを捧げたという逸話が『饗宴』に語られています。

    「あれはあの人の癖で、ときどき、どこでもおかまいなしに、道にそれては入りこみ、そこに立ち尽くしてしまうのです。」

    ここで言う「あれ」とはダイモーン、すなわち神と人間とのあいだにあるものであり、ソクラテスはこのダイモーンの声をきき、前途ある青年をその道に引っ張り込んでは人心を乱した門で死刑を宣告され、それを受け入れて毒をあおって死んだのでした。

    哲学者の古東哲明は『現代思想としてのギリシャ哲学』のなかで、そんなソクラテスについて次のように描写しています。

    「かれが処刑されたのは、かれが叡智者、つまり「ダイモーン的な人間」だったからだ。それは一種のシャーマン。シャーマンとは、五感的現実を超えた超自然性(非知)との交流に、みずからの思想や言葉や行為の源泉をおくもの、というほどの意味である。<いのちの息吹>としてのプシューケーが、超自然界との交流回路となる。そのプシューケーが、肉体的で五感的な現実からフッとトリップし、トランス(脱魂)状態に入り込む。このトリップ状態のなかで、至高性(神的なもの)がたましいに入って充たすエントゥーシアスモス(神充体験)がおこる。(中略)そんな至高体験を、みずからの思考と言葉と行為の起点にする者という意味で、ダイモーン的人間としてのソクラテスは、シャーマンだった。だから、「新規な神々を創作して、古来の神々(オリンポスの神々)を認めない者」として、バレシウス(当時の宗教裁判所)に告訴されたわけだ。」

    現代の感覚からすれば、ソクラテスはずいぶんと宗教的な人ですが、皮肉にもその本質はまさに彼の罪状でもあった「新規な神々の創作」という点にあったように思います。ただ、その創作には確かな内的根拠と全精力をかけた徹底的な対話の上に築かれたものだったのです。

    今期のいて座もまた、そんなソクラテスの爪の垢でも煎じて、ギリギリの緊張感のなかでみずからの“哲学”を研ぎ澄ませていくといいでしょう。

    参考:古東哲明『現代思想としてのギリシャ哲学』(ちくま学芸文庫)
    《山羊座(やぎ座)》(12/22~1/19)
    今期のやぎ座のキーワードは、「演技の場を持つということ」
    現代人は「労働(labor)」と「仕事(work)」をほとんど同義語として扱い区別をしていませんが、思想家ハンナ・アーレントは『人間の条件』において両者からうみだされる「生産物」の違いに着目して区別しました。

    すなわち、「労働」が生み出す「生産物」は耐久性のない消費物であり、「仕事」が生み出す「生産物」は人間の消費過程をこえ、それにいわば抵抗して存続するように作られた、人間の個体の生命を越えて存続する「世界=製作物の総体」の一部であるとしたのです。

    アーレントはこの区別の発想を「台所とタイプライター」から得たそうですが、そこにさらに第三の環境への働きかけとしての「活動」を加え、その例として笛吹きを挙げます。

    笛吹きは笛を吹いている間だけしかその「生産物」は長続きしませんが、つまり活動の生産物とはここでは「演技(action)」であり、人と人とのあいだで行われる行為を指している訳です。

    こうしてアーレントは人間の働きを以上の3つに分類したうえで、近代社会において物質的な「労働」と文明的な「仕事」ばかりが重視され、人間的な「活動」が貶められてきたことを批判し、演技の場である公的領域においてこそ、人びとは単に生きるための必要物(必然)から解放され、自由を獲得することができるのだと説きます。

    「ギリシャ人ならareté(徳)と呼び、ローマ人ならvirtus(勇ましさ)と名付けたはずの卓越そのものは、いつの場合でも、人が他人に抜きんでて、自分を他人から区別することのできる公的領域のものであった。」

    そうした意味では今期のやぎ座は、私的領域やその拡張されたものとしての社会の外に、いかに自分なりの公的領域を持ち、そこで自由に演技(action)していくことができるかが問われていくように思います。

    参考:ハンナ・アーレント、志水速雄訳『人間の条件』(ちくま学芸文庫)
    《水瓶座(みずがめ座)》(1/20~2/18)
    今期のみずがめ座のキーワードは、「夢と現をこえて」
    夢は日本人にとって長いあいだ、現実よりもはるかにたしかな真実であり、神が人間にその意志を伝えるひとつの方法であって、けっしてまぼろしや不確実を意味するものではありませんでした。

    たとえば、国文学者の諏訪春雄の『日本の幽霊』には、夢をこえ現実のなかにさえ亡霊が現れたという新田義興の怪異譚について紹介されています。

    当時、武蔵国荏原郡矢口村の矢口の渡しにおいてだまし討ちで亡くなったこの武将の死にわずかでも関わりをもった人にあいだには不思議な夢見や怪現象がおき続け、近隣の住民らによって新田神社を建立することでようやくおさまったと言われています。しかも現在も東京都大田区にある新田神社では、義興の怨霊を鎮める祭事が続けられているのだとか。

    「心にやましさの一点でもある人たちにとって、怨霊の出現は、夢と現とにかかわりなく真実である。」

    このように、目覚めた人びとの前に出現した怨霊を現(うつつ)と呼んでいたように、現れる怨霊だけでなく、それに対する人びともまた夢と現の違いに関心を払っていなかった訳ですが、こうした感覚はもはや現代ではすっかり失われてしまいました。

    しかしそれでも、今もなお一部の夢に現れる亡き人の霊は、日本人の夢に対する長きにわたる信仰を背景に背負って登場し続けているのであり、その意味で私たちはそうした夢と現をこえた真実味を通して信仰心を維持しているのだとも言えます。

    今期のみずがめ座もまた、日常とは異なる深いリアリティーの層に開かれていくことで、ある種の意志を宿していくことになるかも知れません。

    参考:諏訪春雄『日本の幽霊』(岩波新書)
    《魚座(うお座)》(2/19~3/20)
    今期のうお座のキーワードは、「ふらふらとさすらう」
    会社で、日常会話で、SNSで、混迷を極める現代社会はいつも誰かが他の誰かを責め立てている言論空間を作り出していますが、逆に言えば、そこでは「いかに許すか」という類の言葉が圧倒的に不足しているのではないでしょうか。

    その意味で興味深いのが、2017年に行われた日本ユング心理学会で民俗学者の赤坂憲雄が東日本大震災の被災地をフィールドワークした体験をもとにまとめた「海の彼方より訪れしものたち」という基調講演に対して為された、心理学者・川戸圓氏の延喜式の大祓に関するコメントです。

    「赤坂先生のお話に、海辺にもう一つお墓があって、骨となった人はすべて海が持っていってくれるという話がありましたが、私はその話を聞きながら「延喜式」を思い出していました。延喜式とは、927年に完成した、いわば宮中の決まりごとですが、(中略)まず川の瀬にはセオリツヒメという女の神様がいて、流れが速くなるところにはハヤアキツヒメ、そして河口近くの浅瀬の海にはイブキドヌシという男の神様がいます。それから、深海にはハヤスラヒメという神さまがいます。この3人の女の神様と1人の男の神様が、延喜式の大祓という不浄のものを流す儀式に携わっています。」

    「1年間に溜まった人間のさまざまな罪を、セオリツヒメが川という水を使って海の近くまで運ぶ。そして、ハヤアキツヒメは、それをもっと運び、イブキドヌシがその罪を全部受けて、ふーっと吹くと、罪・穢れはすべて海の向こうに流れていきます。すると、ハヤサスラヒメという海底をさすらっている神様が、あらゆる罪を受け取ることになります。さて、このハヤサスラヒメはどうするのでしょうか。実は、その罪をすべて受け取って、ふらふらと海の底をさすらううちに、知らぬ間に罪がなくなっていくのです。こうして、私たち日本人は浄化されて、また新しい一年が始めるというサイクルになります。」

    川戸氏本人も言及していますが、これは「なぜ罪は生まれたのか」を盛んに論じる西洋にはない発想であり、日本人が発想し得た「許し」にまつわる根源的なビジョンの集大成とも言えるものなのではないでしょうか。

    今期のうお座もまた、そんな延喜式のビジョンにならうように、自身のなかに溜まってしまったさまざまな穢(けが)れを祓っていくといいでしょう。

    参考:日本ユング心理学会編『ユング心理学研究第9巻 海の彼方より訪れしものたち』(創元社)<プロフィール>
    應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。


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    文/SUGAR イラスト/チヤキ

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