【最新12星座占い】<9/19~10/2>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモい

[目次]

  • 【SUGARさんの12星座占い】<9/19~10/2>の12星座全体の運勢は?
  • 【SUGARさんの12星座占い】12星座別の運勢

  • 《牡羊座(おひつじ座)》
  • 《牡牛座(おうし座)》
  • 《双子座(ふたご座)》
  • 《蟹座(かに座)》
  • 《獅子座(しし座)》
  • 《乙女座(おとめ座)》
  • 《天秤座(てんびん座)》
  • 《蠍座(さそり座)》
  • 《射手座(いて座)》
  • 《山羊座(やぎ座)》
  • 《水瓶座(みずがめ座)》
  • 《魚座(うお座)》



  • 【SUGARさんの12星座占い】<9/19~10/2>の12星座全体の運勢は?
    「主観の結晶化」 
    昼と夜の長さが等しくなる「秋分」を2日後にひかえた9月21日には、うお座28度(数えで29度)で満月が形成されていきます。

    そんな今回の満月のテーマは、「画竜点睛」。すなわち、物事を完成させるための最後の仕上げの意。前回の記事の中では、9月7日のおとめ座新月から21日のうお座満月までの期間は「かつて否定した自分自身(の実感や衝動)との和解」ということがテーマになると書きましたが、それは以前なら単なる主観でしかないとして切り捨てていた個人的な思いや直感が改めて検証され、そこには顧みるべき何らかの意味や価値があるのではないかといった“読み解き”が促されていきやすいという意味でした。

    つまり、先の「仕上げ」とは、権威や影響力があるとは言えど誰か他の人の意見や考えや根拠をうのみにするのではなく、あくまでみずからの主観的な確信を熟慮のうえで結晶化していくことに他ならないのだということです。

    例えば、藤原定家の「見渡せば花ももみじもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という有名な歌があります。浜辺であたりを見まわしてみても何もないという意味で、表向きには何にもない景観です。そもそも、花は春、紅葉は秋ですから、同時に観れる訳がない。ただ、「ない」とあえて否定することで、うっすらとその痕跡が重層的にイメージされ、その上に実際の「秋の夕暮れ」が見えてくると、もはやそれはただのさびしい風景ではなく、心的空間における仮想現実体験のような積極的なニュアンスをもつまでに至るのです。無駄を省いて、一つだけ残ったものとしての秋の夕暮れ。何でもないような一日をあらんかぎりの高度な手法をもって大切に締めくくるという意味で、実に今回のテーマに即した作品と言えるのではないでしょうか。

    同様に、今期は他の人が何と言おうとも、自分にとってこれだけは大切な体験・体感なのだということを、手を尽くして結晶化してみるといいでしょう。

    《牡羊座(おひつじ座)》(3/21~4/19)
    今期のおひつじ座のキーワードは、「共時的現象へのコミット」。
    私たちはいわゆる虫の知らせを受け取ったり、夢で見たことを何かの予兆と強く感じることがある一方で、「たまたまでしょ」とか「単なる妄想にすぎないよ」といった言い方で、合理的な考えや因果関係で説明のつかない主観や感覚を否定したり、無視したりすることにあまりに慣れ過ぎているように思います(この“占い”を読んでいる人でさえ!)。

    しかし、新型コロナ感染症に関する事実やその因果関係などをめぐって、これまで日本社会で生きてきた中で今ほど社会においてエビデンスやデータというものへの信頼が揺らいでいる時期はないと感じている人も少なくないのではないでしょうか。

    ただ、出来事を関連付けるための考え方というのは、必ずしも因果律には限定されません。例えば、深層心理学者のユングは「共時性(シンクロニシティ)の法則」という意味で共時律というものを提唱しましたが、これについては彼自身のエピソードを紹介した方が早いでしょう。やはり心理学者のイラ・プロゴフの『ユングと共時性』の訳者あとがきにて、河合隼雄は次のように書いています。

    「ユングの治療していたある夫人は、決定的な時機に、自分に黄金の神聖甲虫が与えられる夢を見た。彼女がこのことをユングに報告しているとき、彼の背後の窓をトントンたたくものがある。振り返ってみると、それは神聖甲虫によく似た黄金虫が窓にぶつかっているのであった。この際、患者が神聖甲虫の夢を語るという事実Aと、黄金虫がそのときに窓にぶつかってきたという事象Bとは、それぞれ独立の事象である。そして、それらは時間軸に沿ってそれぞれについて、どうしてそのようなことが起こったかは、おそらく別々に因果的に説明できるであろう。しかし、そのことが同時に生じ、それを意味深いこととして、ユングとその患者が受け止めたということは、因果律とはまったく別に考えねばならぬことである。」

    「意味のある偶然の一致」とも訳される共時性について説明するのに、プロゴフ自身は何度も「時間軸を横切って」生じる事象という言い方をしていますが、ここで大事なことは、それは異なる出来事を共時的に捉えて結びつける「主体」の存在を前提としているということです。

    つまり、多くの共時的現象においては、それに気付いた個人がどれほどの意味を感じ、どれほどその気付きにコミットしてゆくかが問題なのだ、と。

    今期のおひつじ座もまた、それは果たして本当に共時的現象なのかなどという問いかけはいったん脇に置いて、どれだけいったん気付いた共時的現象にコミットしてゆけるかをこそ追求していきましょう。

    参考:イラ・プロゴフ、河合隼雄・河合幹雄訳『ユングと共時性』(創元社)
    《牡牛座(おうし座)》(4/20~5/20)
    今期のおうし座のキーワードは、「フィールドワークこそ力になる」。
    いま私たちは様々なレベルで、加速度的な速さで変化していく不確実な社会に生きることを余儀なくされています。しかし、だからこそ時間をかけて丁寧に自分の身の周りに配置するものを選び、その基準を洗練させていきたいといった、長い時間をかけて進化してきた生命本来の欲求にもっとも忠実な、典型的なおうし座の人たちの存在は、かえってその重要性を増しているように思います。

    例えば、アリ研究の第一人者にして「社会生物学」「進化生物学」分野の創設者である生物学者/昆虫学者エドワード・O・ウィルソンは、インタビュー集『嘘と孤独とテクノロジー』の中で、インタビュアーが提示した「われわれは100~200年後には自らを崩壊させてしまうか、もしくはテクノロジーを使って、高度な知能を備えたほぼ無機的な「ポストヒューマン」に進化していくだろう」というビジョンにおおむね賛同しつつも、若い人へのメッセージとして次のように語っています。

    「地球上の生命体についての実態、「生物とは一体何か、どこから来たのか、どれくらいの数存在するのか、どのようなメカニズムで全体がまとまっているのか」などについて研究はまだ始まったばかりで、これから科学研究分野、そして教育分野で、大いに注目され推進されサポートされるべきなんです。」

    そして、どのような教育が尊重ないし推進されるべきかということについて、サイエンス(S)、テクノロジー(T)、エンジニアリング(E)、数学(M)をまず勉強させるSTEM教育というアメリカの教育システムを「これは間違っている!まったく逆なんです!」と批判しつつ、こう続けています。

    「大学に入る前のこの時期にこそ、「若い科学者」が生まれるのです。(中略)その際に、最も適した場所の一つはフィールドワークです。自然世界に対して興味と好奇心と情熱が自然に沸き起こってきたら、あとは簡単です。(中略)基礎の部分にたくさんの時間を使うのは無駄です。順序を逆にして、まず実際の研究にとりかかるところから始めたほうがいい。」

    例えばそれは、ある昆虫ないし生物が絶滅してしまうとそれがどんな波及的効果を環境にもたらすのか、といったことであったり、自身の暮らしている範囲の自然環境を健全に維持していくためには一体どれくらいの種類の生物に関与してもらう必要があるのか、といったことでもいいでしょう。

    ウィルソンの言葉を借りれば、そこで大切なのは、「世界を探検せよ、そしてその中に生きている生物についてよく調べ、それらを維持するためのサイエンスを確立しよう」ということ。そして、ここであえて一歩進めて言えば、「サイエンス」とは、アカデミックで厳密なルールに基づくものに限らずとも、おうし座なりの経験則や「生活の知恵」であってもいいのではないでしょうか。

    参考:吉成真由美編『嘘と孤独とテクノロジー』(インターナショナル新書)
    《双子座(ふたご座)》(5/21~6/21)
    今期のふたご座のキーワードは、「肉を斬らせて骨を断つ」。
    1963年2月から3月にかけ、『ニューヨーカー』誌に連載され、その後アメリカの出版社から刊行されたハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』は、元ナチスの戦犯で、ユダヤ人撲滅作戦において数百万人におよぶ強制収容所への移送を指揮したアイヒマンの裁判をみずから傍聴し、膨大な関連資料を読み込んだ上で書き上げたルポルタージュでした。

    しかし、本書は発表直後から欧米のユダヤ人社会を中心に大きな議論を呼び、その後一連の激しい著者個人への非難キャンペーンの端緒となったいわくつきの仕事であり、その際「しばしばほとんど嘲弄的で悪意ある」と非難されたのが自身もユダヤ人であるはずの彼女の語り口でした。

    それは資料によりながら、淡々と叙述を重ねていく一方で、「アイヒマンの味方なのか」という評まで生んだほどに、ときにアイヒマンに非常に深くコミットし、可能な限りアイヒマンに沿って物事を理解しようと試みるかのような記述があったり、悲劇的状況に置かれた「同胞」への同情に欠ける『ニューヨーカー』誌にふさわしい硬質でしゃれた文体や、皮肉と風刺をまじえた乾いた語調からなっていたのです。

    なぜ彼女は内容に工夫を凝らす代わりに、そうした語り口をあえて選び、訴えたのでしょうか。文芸批評家の加藤典洋は『敗戦後論』に収録された「語り口の問題」の中で、「わたしの考えをいえば、アーレントはこの裁判を、第三者として、それこそ冷静に、ルポルタージュしぬこう、そのことができれば、それはそれだけでなにごとかだ、と考えて」いたのだとした上で、次のよう述べてみせました。

    「共同性を殺すには共同性の単位である「私」の場所から、裏の闇である私となって語るしかない。私の語る言葉とは何か。私性はprivé世界から奪われた存在にほかならない。私は言葉を奪われている。私に残されているのは語り口なのである。」

    ここで言う「共同性」とは、「この裁判を全世界の人間にもう一度ユダヤ人絶滅の悲劇の事実を知らしめ、頭を垂れさせる教訓劇に」しようとするイスラエル、ユダヤ人社会の意向を宿した検事の語り口であり、彼女の語り口はそこから完全に欠落しているものを引き受けたものだったのではないか、と。

    今期のふたご座もまた、強いられた共同性から脱け出すための方途としての「語り口」ということをひとつ考えてみるといいかも知れません。

    参考:加藤典洋『敗戦後論』(ちくま学芸文庫)
    《蟹座(かに座)》(6/22~7/22)
    今期のかに座のキーワードは、「自律した個人などいない」。
    コロナ禍以降、他者との目に見える距離とともに目に見えない距離もまた広がり続けているように感じます。少なくとも、私たちは以前そうしていた仕方で、当たり前のようにみなで集まったり、なんとなく誰かと会ったりといったことはもはや当面のあいだ難しいでしょう。

    しかし現代社会において、個人と個人は果たして結びつきえるか。あるいは、実際のところ、私たちは愛し合うことなどできるのか、という命題に1930年の時点で真正面から取り組んでいたのが、『チャタレイ夫人の恋人』の作者でとして知られる作家のD・H・ロレンスでした。その答えは、もちろん否定的なものです。以下、『黙示録論』より引用。

    「近代の男女は個人として以外に自分自身のことを考ええないのだ。ゆえに、彼等のうちにある個性は、ついにおなじく自分たちのうちの愛し手を殺さねばならぬ宿命となる。というのは、自分の愛する対象を殺すというのではない。おのおのが自分の個性を主張することによって、自己のうちの愛し手を殺すということなのだ。」

    試みに愛しあおうとしてみれば、そこに次第に露出してくるものは、他人を支配しようとする我意であり、それは彼等が自身で考えているような「純粋なる個人」などではないのだとロレンスは言うのです。

    「個人は愛することができない。個人がひとたび愛するならば、もはや彼は純粋な個人ではなくなってしまう。そこで彼はふたたび自己をとりもどし、かくして愛することをやめねばならぬのだ。これこそ現代の教えるもっとも驚愕すべき教訓でなくしてなんであろう。」

    こうした自己矛盾があるにも関わらず、現代人は(ロレンスはその前提にキリスト教を置いていますが)「自分たちのうちの我意を愛他思想のうちにひっくるめてしまおうとする(福田恆存)」。そして、それゆえに「抑圧された我意はゆがんだ権力欲へと噴出口を求める」のであると。

    では、そんな歪んだ欲望に振り回されがちな私たちはどうすればいいのか。ロレンスは次のように結んでいます。

    「吾々の欲することは、虚偽の非有機的な結合を、殊に金銭と相つらなる結合を打破し、コスモス、日輪、大地との結合、人類、国民、家族との生きた有機的な結合をふたたびこの世に打ち立てることにある。まず日輪と共に始めよ。そうすればほかのことは徐々に、徐々に継起してくるであろう。」

    いささか楽観的な物言いですが、今期のかに座もまた、自身が結ぼうとしている結合が非有機的なものか、有機的なものであるのかを改めて見定めていくべし。

    参考:D・H・ロレンス、福田恆在訳『黙示録論 現代人は愛しうるか』(ちくま学芸文庫)
    《獅子座(しし座)》(7/23~8/22)
    今期のしし座のキーワードは、「もはや幻想ではないが、いまだ兆候ではない」。
    新型コロナウイルス感染症が流行するようになってから、大学生などを中心に「コロナうつ」という言葉が盛んに報道されるようになりました。直接にキャンパスへ行けず、かと言って帰省もできず、生活リズムも乱れがちなことなどが複合的に原因となっていると言われていますが、それはもはや学生に限った話などではなく、社会人や主婦や高齢者にも共通する、ある種の“時代的な気分”とさえ言えるほどのものとなっているように思います。

    うつ病が起こりやすい性格としての、一般的に几帳面で良心的といった特徴を持つとされる「メランコリー気質」は、特に日本社会やドイツ社会などで顕著にみられるものとして70年代ごろから注目されるようになってきました。しかし、そもそも古代ギリシャの体液論や中世の寓意画など、伝統的においてこの気質は最も不吉な結果をもたらすものとされた一方で、詩や哲学、芸術に携わる者に必須な、内的な観想や瞑想的な知への傾向が与えられるともされてきたのです。

    例えば、現代イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、ルネッサンス期を代表する思想家であり、医師でもあったマルシリオ・フィリーノの著述を参考にしつつ、「愛とメランコリーの結びつきは、しかし、すでに古くから医学の伝統の中にその基礎を持っていた。この伝統は一貫して、愛とメランコリーを、同じとまでは言わないまでも類似した病と考えてきた」という興味深い指摘をしています。

    「メランコリー気質者の激しい瞑想への性向は、彼を愛の情熱へと駆り立てずにはおかない」というメランコリーの力学的メカニズムについて、アガンベンはフロイトを引きつつ「愛の対象の喪失に対する反動」なのだとした上で、これこそ人間の文化を根底で支えてきた創造的努力に他ならないのだとして、そのプロセスを次のように描写してみせました。

    「執拗なまでに幻想に耽ける嗜好によって開かれた空間の中でスタートを切り、否定性と死をわがものとするとともに、最大の非現実性をとらえることによって最大の現実性を形づくろうとする」

    つまり、メランコリックな人がその対象としているのは「もはや幻想ではないが、いまだ兆候ではない」、都市の無意識が宿る“空き地”なのであり、そこで行われているのは、制限されてはいるが放棄されてはいない子どもの頃の遊びの続きなのではないでしょうか。

    今期のしし座もまた、そうした時代の気分としてのメランコリーを引き受けつつ、自分なりのエロティックな星座を指し示していきたいところです。

    参考:ジョルジョ・アガンベン、岡田温司訳『スタンツェ』(ちくま学芸文庫)
    《乙女座(おとめ座)》(8/23~9/22)
    今期のおとめ座のキーワードは、「神様の声の生成」。
    全体運で「主観の結晶化」ということが今期の全星座に通底するテーマなのだと書きましたが、しかし考えてみれば主観と客観という区分けほど曖昧なものはないようにも思います。

    例えば、私たち日本人は「神」ということをどこかで客観的実在として捉えているようなところがありますが、アメリカの心理学者ジュリアン・ジェインズは1976年に刊行した『神々の沈黙』という本の中で、「3000年前の人類はまだ意識をもっていなかった」し「古代人にとって神とは集合的な経験知の蓄積の発動だった」という仮説を発表し、大きな反響を呼びました。

    例えば、紀元前8世紀末のホメロスの『イーリアス』の登場人物は意識を持っておらず、彼らは内から聞こえる神々の言葉に従って行動する、いわば自動人形のような存在であり、彼らにとって感情や欲求や決断は、すべて「神々の声」を実現した結果だったのだ、と。

    ジェインズは「二分心(bicameral mind)」という言葉を使って、右脳にアーカイブされた集合知が、左脳からの問いかけに応じて返答していたのだと説明するのですが、やがて人類のなかに意識が生まれ、そうした「神々の声」の内容が体系化され、外部化されてくると、次第に聞こえなくなっていったのだと。

    この点について、ヨーガ指導者の成瀬雅春は、対談の中でこの仮説を取り上げつつ、一神教というのは「「聴こえない声」のための空席を脳内に確保するための仕掛け」だが、多神教では「神様との交流の回路がまだ残っている」のではないか、という思想家の内田樹の発言を受けた上で、次のように答えています。

    「「神の声が聴こえた」というのは、自分の中にあるデータから引っ張り出したということ」だとして、ヨーガで瞑想するのも、「要するにデータベースを探っていく」ということであり、「一番必要なことは何でも自分の中にある」のだと。

    その意味で今期のおとめ座もまた、自身だけでなく同じ日本語や身体性を使ってきた集合的な経験の蓄積にアクセスしていくことで、自分なりの「神様の声」を生成していくという視点を大切にしていきたいところです。

    参考:内田樹・成瀬雅春『善く死ぬための身体論』(集英社新書)
    《天秤座(てんびん座)》(9/23~10/23)
    今期のてんびん座のキーワードは、「ハチャメチャでありたい」。
    坂口恭平がどこかで「SNSで他人の書き込みや反応でいちいち一喜一憂している人はみんな躁うつ病」と書いていたのを見て以来、いまの日本社会は“一億総うつ病社会”と言っていいのではないかという思いがずっとぼんやりあるのですが、もう一つ感じているのが、それにしたってなんというか律儀な躁うつ病の人が多過ぎないか、ということ。

    そこで思い出されるのが、作家の北杜夫が壮年期に突如として躁うつ病にかかった体験について、娘さんの斎藤由香と、北の最晩年に対談した『パパは楽しい躁うつ病』だ。娘のツッコミに対する父の反応が、どこまでがボケで、どこからが本気なのかよく分からなくてとにかく絶妙なのだ。

    「由香 私が小さいときからパパはずっと躁うつ病が続いたんだけど、歳をとったらうつ病ばかりで、「もう躁病は来ないのかな」と思ってたら、一九九九年に突然、大躁病になったのよね。
    北 ……。
    由香 二人で競馬を見ていたら、サイレンススズカが安楽死させられて、パパが「パパももう原稿も書けないし、生きていてもしょうがないから安楽死させてくれ」と言ったので、私が「サイレンススズカは名馬だけれど、パパは駄馬だからダメ!」って言ったら、元気になった。
    北 ……。
    由香 それまでずっとうつ病でつまらないなと思ってたから嬉しかったけれど。パパは自分でナマ原稿を売って株や競馬をやってました。
    北 いや、くだらないやつだけ。
    由香 いくらになったの?
    北 うん?
    由香 うん? じゃなくて。
    北 うん。
    由香 担当の編集の人から四〇万って聞きました。
    北 いや、あの、あのときの書庫の改造で、書庫の本をほとんど売らなきゃいけなかった。
    (中略)
    由香 ママが「競馬のためにナマ原稿売るなんて、なさけない」と言ってました。」

    いま躁うつ病は「双極性障害」という名前に変更されているが、本書を読んでいるともはやキタ・モリオ病とでも名付けた方がいいのではないか、というくらいハチャメチャな話が多くて笑える。実際、病気がひどくなった頃は、自宅が抵当に入り、借金も1億をこえたそうだが、それにも関わらず、家の中は笑いが渦巻いていたようだ。もしかしたら、病気自体が北の壮大なフィクションだったのかも知れない。今期のてんびん座も、これくらい堂々とハチャメチャでありたいところだ。

    参考:北杜夫・斎藤由香『パパは楽しい躁うつ病』(新潮文庫)
    《蠍座(さそり座)》(10/24~11/22)
    今期のさそり座のキーワードは、「愛の能力」。
    9月21日のうお座満月のテーマである「主観の結晶化」とは、端的に言えば「ビジョンを持つ」ということでもありますが、近代科学がこれほど発達し、無数の専門分野へと細かく分化した今のような時代では、かえってまとまりを持ったビジョンを得ることは難しくなってしまいました。

    しかし、そうした中でも、たとえば北京原人の発見と研究でも知られる古生物学者であり、またカトリックの神父でもあったピエール・テイヤール・ド・シャルダンのような人物は、1930年代後半に『現象としての人間』のなかで、宇宙と人類の進化について大胆な仮説を打ち出してみせたのです。

    そのビジョンの要点は、生物の進化の延長線上に宇宙的な規模での意識の進化を想定したものなのですが、そこでテイヤールは、大胆にも伝統的な創造論の立場を破棄し、キリスト教の神を古生物学的な進化論に捉えなおすことで、愛に対してもエネルギーの進化の観点から新しい光を当てました。

    彼によれば、愛とは人間だけに固有の現象ではありません。それは生物全体の一般的特性であるだけでなく、すでに物質分子の結合のうちにも見られるものなのだと。彼はそう言い切った上で、「世界をつくるために、愛の力に駆られてその全断片は互いに相求める。これはいかなる隠喩でも詩的表現でもない」と述べるのです。

    さらに続けて、「あらゆる色合いを持つ愛は、宇宙による自己の内部への精神的な収斂が各構成分子の核心に遺す多かれ少なかれ直接的な痕跡に他ならない」とも書き、生物学的にはさまざまな一と多における和解はこの世界における必然であり、その際に「われわれの愛の能力が人類と地球の総体を包み込むまで拡がると考えるだけで十分ではないか」とさえ述べてみせました。

    カトリック教会はこうしたテイヤールのビジョンを危険なものと見做し、その著作は禁書とされてしまいました。もちろん、今日の学的実証においても、論理的にも、テイヤールの主張には多くの誤謬が見られますが、しかし哲学的ヴィジョンとしては多くの人に影響を与え、やはり顧みるべき価値は非常に大きかったと言えます。

    今期のさそり座もまた、テイヤールほど大胆にとまでは行かなくても、間違いや批判を恐れずに、自分なりの体験や探求からひとつのビジョンを導きだしていきたいところです。

    参考:ピエール・テイヤール・ド・シャルダン、美田稔訳『現象としての人間』(みすず書房)
    《射手座(いて座)》(11/23~12/21)
    今期のいて座のキーワードは、「深淵なる井戸」。
    いまネットニュースのコメント欄やSNSなどでは、激しい言葉、強烈な言葉が氾濫しているように見えます。しかし、それらの大半は感情的な反応や無内容な大声がエスカレートしたようなものであり、言葉そのものとしての力はひどく衰弱している、あるいは、言葉が強い力を持つことが難しくなっている、と言わざるを得ない状況なのではないでしょうか。

    そういう状況の中にあって思い出されるのが、「バルカンのパスカル」とも呼ばれたエミール・シオランです。彼は作家であるとか思想家であるといったカテゴリー以前に、一個の巨大な反抗者であり、私たち人間の業のような憎しみや残酷さなどをたじろぐことなく凝視した点において突出した存在でした。

    たとえば、『悪しき造物主』と題された著書の「扼殺された思い」という章では、「愛することではなく憎むことをやめたとき、私たちは生きながらの死者であって、もう終わりだ。憎しみは長持ちする。だから生の<奥義>は、憎しみのなかに、憎しみの化学のなかに宿っているのだ」と述べられていますし、残酷さについても、彼は「残酷さは私たち人間のもっとも古い特徴であり、私たちはこれを借りもの、にせもの、みせかけなどと呼ぶことはほとんどない。こういう呼称は、逆に善良さにこそふさわしい。善良さは新しい、後天的なものであり、深い根は持っていない」と言い切ってみせるのです。

    こうしたシオランの悪への凝視は、この世は「悪しき造物主」がつくったものであるというグノーシス主義への彼の関心と深く結びついていました。彼は古代のグノーシス主義者の「人間はみずからを救済したいと思うなら、無知への回帰を果たすことによって、生まれついての自己の限界に戻らなければならない」という教えに沿うかのように、次のように書いています。

    「横になり、目を閉じる。すると突然、ひとつの深淵が口を開く。それはさながら一個の井戸である。その井戸は水を求めて目も眩むような速さで大地に穴をうがっていく。そのなかに引きずり込まれて、私は深淵に生をうけた者のひとりとなり、こうして、はからずもおのが仕事を、いや使命さえ見出すのだ。」

    今期のいて座もまた、こうしたシオランの静謐(せいひつ)で自己自身を見つめた言葉に沿って、井戸に引きずり込まれていくべし。

    参考:エミール・シオラン、金井裕訳『悪しき造物主』(法政大学出版局)
    《山羊座(やぎ座)》(12/22~1/19)
    今期のやぎ座のキーワードは、「恋愛病の深い渇き」。
    コロナ禍以降、誰かと直接会って話したり、一緒になって盛り上がることが、すっかり「ぜいたく品」になってしまいましたが、価値がつけばそれを求める度合いも強まっていくのが自然の道理。実際「コロナ離婚」という言葉が飛び交うほどに、コロナ禍をきっかけに離婚相談件数は格段に増えているようです。

    ここで思い出されるのが、二谷友里恵の『愛される理由』が話題となり、角川書店が『贅沢な恋愛』という短編集を出し、ユーミンが「純愛」というコンセプトを商品にして、いずれも売れに売れた90年代初頭の雰囲気。たとえば、同時期の1990年に発表された社会学者・上野千鶴子の「恋愛病の時代」には次のような記述があります。

    「ひと昔前は「恋愛」は「その人のために死ねるか」(曽野綾子)という能動性だったが、世紀末の恋愛は「愛される理由」(二谷友里恵)という受動性に変わってしまった。ほんとうは「愛したい」のではなく「愛されたい」だけなのだと、ベストセラーの一〇〇万部という部数は教えてくれる。「わたしを愛してくれるあなたが好き」と。異性愛とは、「自分と異なる性に属する他者を愛せ」という命題だが、<対幻想>から異性愛のコードをとり去ってみると、「愛されたい願望」はますますはっきりする。(中略)性別は「おまえは不完全な存在である」と告げるが、それを超えて完全な「個人」に近づくだけ、恋愛病は深くなる。」

    そして上野はそこに「恋愛病は近代人の病いだ」と続けるのです。一昔前には当たり前とされた「経済的に自立できない女」と「生活的に自立できない男」の相補的な「結婚」の無理や不自然がコロナ禍で加速化し、崩れつつある今、私たちは再びただの「個人」として「恋愛したい(愛されたい)」と深く渇いているのでしょうか。

    かつて上野は「恋愛病の時代」の結びで、「ここから「愛されても、愛されなくても、私は私」への距離は、どのくらい遠いだろうか。そして自立した「個人」を求めたフェミニズムは、女を「恋愛」へと解き放つのだろうか、それとも「恋愛」から解き放つのだろうか?」と書いてみせましたが、こうした一連の問いかけは、それから30年の月日が経過した今だからこそ、深く染み入るように感じる人も多いのではないでしょうか。

    今期のやぎ座もまた、どのような位相において自分は渇いているのか、改めて振り返ってみるといいかも知れません。

    参考:上野千鶴子『発情装置』(岩波現代文庫)
    《水瓶座(みずがめ座)》(1/20~2/18)
    今期のみずがめ座のキーワードは、「信じられないがゆえに信じたい」。
    コロナ禍は、ジェンダー格差や経済格差など社会におけるさまざまな分断を露呈させました。いや、より厳密には、長きにわたって存在してきた分断を一気に加速化させ、噴出させたのだと言えます。

    それは見方を変えれば、これまでなんとなく支持されてきた共同幻想(「お上の言うことに従っていれば助けてもらえる」「我慢してがんばっていれば、豊かになれる」etc)がいまガラガラと崩壊しつつあるのだという風にも考えられますが、そうだとすれば、私たちは共同性の核となるようなものを、もう一度この社会のなかに作っていく必要性に駆られている訳です。

    やはり生活していく上でも、仕事をしていく上でも、そして間違った情報に騙されないためにもコミュニティというものは欠かせない訳ですが、それにはどんな方向性があるのか。たとえば、この点について20年前の2001年に、宗教学者の山折哲雄と同じく宗教学者の島田裕巳が行った「オウム事件―救済とテロリズム」と題された対談のなかで、次のように語っています。

    「島田 オウムにいた人たちは、すべてかどうかはわからないけれども、元信者に話を聞くと、家族が嫌いだと言うんです。
    山折 「イエスの方舟」の信者たちが言ってましたね。自分の血縁家族は本当の家族ではなくて、「イエスの方舟」の世界が本当の家族だと…。
    島田 社会はそのへんにはなるべく目をつぶっています。やはり、そういう家族共同体では解決しない。
    山折 日本の社会全体が今、家族幻想に酔っている。そこにしか最後のよりどころはないと思い込んでいる。国家の政策もそういう方向に行っている。だけれど、実際は老人介護の問題を突き詰めていくと、あれは日本の家族が崩壊しているということを前提にして作られた政策ですね。厚生労働省はそういう政策を作っている。ところが文部科学省は何を作ろうかとしているかというと、家族の再構成ということです。国家の政策が分裂しているんです。」

    ここでは、「ほっとけば野生化する人間をなんとかそうでない人間にするための文化的な装置(山折)」の最大のものとして「宗教」が取り上げられているのですが、何を信じるべきか/信じざるべきかという信仰の問題は、いままさに日本社会でもホットトピックとなっているように思います。

    山折は対談の中で、「何かを容易に信じることができない社会において、だからこそ信じるのだというメッセージを、あくまで個人的に掲げていく」という在り方を「百人が百人できる道ではないけれど」とことわりつつも、ひとつの有効な方向性として提示していますが、これは今期のみずがめ座にとっても重要なモデルとなっていくのではないでしょうか。

    参考:山折哲雄『悪と日本人』(東京書籍)
    《魚座(うお座)》(2/19~3/20)
    今期のうお座のキーワードは、「いたみても世界の外に佇(た)つわれと紅き逆睫毛(さかさまつげ)の曼殊沙華」(塚本邦雄)。
    秋彼岸も近くなると、日本中のいたるところで、曼殊沙華(まんじゅしゃげ)の花が突然すっくと立ちあがって顔を覗かせるようになり、ただそれも十月の半ばころには皆殺しの後さながらの真っ赤な血の海もすべて掃き消されていきます。

    もともと「曼殊沙華」とは「天上に咲く花」を意味する仏教語であり、想像上の動植物が世俗に生きた実例の一つなのですが、この花には東洋独特の日本在来種でありながら、古歌に詠まれた形跡はほとんどなく、近代に入ってようやく詠まれた始めたという意外な、いや言われてみればそうだろうというような歴史があるのだそう。

    こうした曼殊沙華について、たとえば前衛短歌を代表する歌人・塚本邦雄は『百花遊歴』の中で、次のような印象的な一文を遺しています。

    「不意打ちめいた真紅の痙攣、葉の欠如、しかも全く香りを持たぬこと、更に有毒であること等、この植物はもともと日本人に忌み嫌はれるやうにできてゐる。あの躊躇も含蓄もかなぐり捨てて居直つた美しさも亦反感を呼ぼう。私はそれが好きだ。同科のアマリリスの中途半端な濃艶さより、どれほど潔いことか。」

    しかり。目に映ったものを綺麗だと素朴に口にできることも時に瞠目(どうもく)に値するものですが、しかしその植生や歴史、詠まれた歌の数々を知り尽くした上でなお、「私はそれが好きだ」と書くことのできた塚本の潔さもまた、曼殊沙華に負けず劣らずと言ったところなのではないでしょうか。

    自分の星座で満月を迎えていく今期のうお座もまた、それくらいの率直さをもって、みずからの“感じたこと”を周囲に示していきたいところです。

    参考:塚本邦雄『百花遊歴』(文芸春秋)<プロフィール>
    應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。


    --------占いの関連記事もチェック--------

    ゲッターズ飯田の「2021年五星三心占い」(無料)

    イヴルルド遙華の「2021年 MYポジティブポイント占い」(無料)

    ルネ・ヴァン・ダール研究所のMORE HAPPY 占い(無料)

    365日お誕生日占い(無料)

    文/SUGAR イラスト/チヤキ

    関連記事